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日本のこれからを見据えたビジネスリーダーたちの次世代を切り開くメッセージを収録。

FILE NO.0107
外食産業

株式会社喜代村 木村清 | 衰退寸前の築地を 救った男が実現した「客の喜ばせ方」

株式会社喜代村 代表取締役社長 木村清

24時間年中無休のアイデアが生まれた背景

いまや、その安さと美味さと新鮮さで、全国的に名の知れわたった寿司店「すしざんまい」。同店を経営するのは、株式会社喜代村だ。24時間営業・年中無休の寿司店を中心に、回転寿司、鮮魚店もふくめて国内57店舗を展開する。喜代村を率いるのが、「マグロ大王」と称される社長の木村清。築地の中央卸売市場の初競りでは高値で落札、自ら解体を披露する姿がメディアに紹介されているので、”ああ、あの太っ腹社長”と合点する向きも多いだろう。当然のことながら、落札価格は相当な額にのぼるものの、必ずNHKをはじめとするニュースでも取りあげられるので、その情報波及効果は絶大。単に太っ腹だけでなく、豊かな発想をもったアイデアマンでもある。

すしざんまいは、築地場外に本店があり、いつも行列ができている。しかも、別館、本陣、奥の院、築地駅前店そして新館まで出店している。さらに、喜代村が運営している「廻る」を店名に冠した回転寿司2店、立ち食いの「まぐろざんまい」、すしざんまいの食材を用いる天婦羅屋1店、鮮魚店3店を合わせて、築地エリアだけでなんと13店舗を構えている。

実は、現在の築地の賑わいからは想像できないが、同社のすしざんまい本店ができる2001年までの築地場外は、来客数が年間150万人を切り、深刻な状況にあった。ところが、この24時間年中無休の寿司屋ができたことでにわかに活気づき、現在は再び600万人を超えるほど築地に客が戻ってきた。まさに、”すしざんまい効果”。築地を復活させたのは、まぎれもなく、木村のアイデアだったのだ。

  当てにしていた深夜の客獲得には失敗したが

「築地はこのままでは廃れていく、なんとか活性化できないかという相談を受けたのは2000年のころでした。築地での私の30年間の仕事ぶりを見たうえでの頼みだった。築地といえば魚。魚を一番使うのはどこか? 寿司屋だ。が、どこの寿司屋も入りづらい。中が見えないし、勘定を払う段になって高い金額を請求されるのではないかと心配する客もいるだろう。そのうえ臨時休業や早じまいの店もある。これでは客が二の足を踏むのは当然だ。そこで、定休日も、ネタの売切れも、閉まっている時間もない店をつくれないかと考えたわけです。幸いにして新鮮なネタをいつでも供給できるルートを私は持っていました。客としては、朝は買い出しの人、昼は周辺の会社の人、夜は芝居の客やサラリーマン、夜中は築地に来る5000台にのぼるトラックの運転手が客に見込める。8時間交代でシフトも組める。”よし”と」(木村)

ところがそううまくは運ばなかった。24時間営業の要となる深夜の時間に当てにしていたトラック運転手たちがまったく食べに来なかった。彼らは、道の混まないうち、少しでも早く東京脱出を図っていたのだ。

「あー、これは失敗した」と木村は思ったという。そのとき、彼の脳裡に浮かんだのが、これまで足繁く通って来た銀座のママたちのことだった。

「アフターがあるから、お客を連れてきてもらおう」。2人で来てほしいと声をかけたのは、たった3人のママだったが、彼女たちはそれぞれ、2人どころか8人16人と連立ってやって来てくれた。それがハズミとなった。さらには、ガイドブックで紹介されたのか、やがて海外からの旅行者たちが来店するようになった。成田の国際線最終便は夜10時台、トランジェットの客が待ち時間を利用して、東京まで車をとばして寿司を食べにくるのだ。人が人を呼び、店は大成功を収めた。

「すしざんまいが開店したばかりの12、3年前は、海外の寿司屋の数が2300ほどだった。ところがいまはどうです、7万5000店舗もある。寿司文化は確実に世界に広まりました」

そう、世界に寿司を広めたのは、すしざんまいと木村清その人にほかならない、そういっても過言ではないのだ。

  カリフォルニアロールも炙りトロも考案した

35坪のすしざんまいは、40数席で年間10億円を売上げた。客単価3000円として、客回転率は1日23・5回転。驚異的な数字というほかない。そして、築地を中心にドミナントを形成し、やがて少しずつ、その輪を都内へ、全国へと広げていった。

同社の快進撃はいまもつづいているが、築地の復活を果たした木村が次に手をつけたのは、寿司業界への梃入れだった。

「見まわせば、職人が減りつつある。このままでは寿司業界がダメになるぞ」と、危機感を感じた彼は、すかさず寿司職人養成講座「喜代村塾」を開校した。いままでの業界のやり方だと、職人が一人前になるまでに最低10年かかる。ところが、10年経つうち10人いた職人は1人しか残っていないというのが実情。そこで、喜代村塾では、2年間で集中して一人前にまで育てる方式をとった。喜代村塾は、これまで400人の寿司職人を世に送り出しすしざんまいにとどまらず、国内外の寿司屋で働く多くの人材を供給している。人手不足解消はもちろんのこと、寿司文化の継承、伝播に大きく寄与しているのだ。

「わたしは、ウチだけがなんていう小さな了見はありません。寿司業界全体が盛りあがればいいと思っているんです。それだけでなく、日本全体がね。そして日本の和食の文化を世界に広めていきたい。これからも、”こんなのあったらいいな”という、人が喜ぶものに、どんどん挑戦していこうと思っています」

実は、あまり知られてはいないが、ほか弁もカラオケもレンタルビデオも、日本で最初に手がけたのは木村だ。業界に関して言えば、カリフォルニアロールや炙りトロのメニューを考案したのも木村。

次々アイデアを繰り出しながら、自慢せず驕らず、着実に”人が喜ぶもの”を実現していく彼の姿は、実に頼もしい。

株式会社喜代村 木村清社長 インタビュー画像1

引用元:CEO社長情報

記事掲載日:2014年9月

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