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FILE NO.0116
外食産業

株式会社喜代村 木村清 | できるかどうかは、やってみないとわからない

株式会社喜代村 代表取締役 木村清
株式会社喜代村 木村清 サムネイル画像

安さと美味さと新鮮さで人気の寿司屋「すしざんまい」は、まさに、外食産業における繁盛店の代表格。

築地場外にある本店にはいつも行列ができており、本店のほかに築地に7店舗(すしざんまい以外にも系列店として、「廻る」を店名に冠した回転寿司2店、立ち食いの「まぐろざんまい」、すしざんまいの食材を用いる天婦羅屋1店、鮮魚店3店を構える発展ぶり。

同チェーンを運営する株式会社喜代村は、築地をドミナントに、2002年から都内の他エリアにも出店し、08年に赤羽店、10年には福岡・天神店、北海道すすきの店・小樽店をオープン、現在では、国内計54店舗、回転寿司や鮮魚店もふくめれば計59店舗を展開する。

その総帥が、「マグロ大王」こと木村清社長である。

築地の中央卸売市場の初競りで、マグロを高値で落札、自ら解体を披露する姿をメディアで目にしたことのある向きも多いだろう。マグロに関しては幼いころからコダワリがあるという木村社長だが、例年NHKをはじめとするニュースでとりあげられることによる情報波及効果は絶大。抜群の行動力プラス、豊かな発想をもった経営者なのである。

築地の賑わいを復活させただけでなく海外に寿司を広めた男

いまや、24時間・年中無休の寿司屋の代名詞となり、その盛況ぶりがすっかり定着したすしざんまいだが、もちろん、かつて24時間営業の寿司屋などどこにもなかった。やはり、24時間営業の寿司屋という発想と、それを実現してしまう行動力がすごい。

「実は、すしざんまい本店ができる2001年までの築地場外は、ちょっと想像がつかないかもしれませんが、来客数が年間150万人を切り、深刻な状況にあったんです。このままでは廃れていく、なんとか築地を活性化できないかという相談を受けたのが2000年のころでした。

築地でのわたしの30年間を見たうえでの、木村を見込んでの頼みだったと思います。そこでわたしは考えました。築地といえば当然、魚。魚を一番使うのはどこか? 寿司屋だ!と。

しかし、どこの寿司屋も入りづらい。中が見えない。食べ終わって勘定を払う段になって高い金額を請求されるのではないか。臨時休業や早じまいも多い。これでは客が二の足を踏むのは当然だ。そこで、定休日も、ネタの売切れも、閉まっている時間もない店をつくれないかと考えたわけです。

幸いにして78品目の新鮮なネタをいつでも供給できるルートを持っていた。そして、客を想定してみました。朝は買い出しの人、昼は周辺の会社の人、夜は芝居見物の客やサラリーマン、夜中は5000台にのぼるトラックの運転手が客に見込める。24時間なら8時間交代でシフトも組める。よし!24時間営業・年中無休でいこう、と」(木村社長)。

ところが、はじめてみたところ、なんと、当てにしていたトラック運転手たちがまったく食べに来なかった。あとでわかったことには、彼らは、道の混まないうち、すこしでも早く東京脱出を図っていたのだった。とはいえ、それしきのことで挫ける木村社長ではない。そのとき、これまで足繁く通って来た銀座のママたちのことが頭に浮かんだという。「彼女たちにはアフターがある」と。彼は、3人のママにさっそく連絡し「2人で来てほしい」と声をかけた。すると、彼女たちは以降連日、それぞれ、2人どころか8人、16人と客を連れてやって来てくれたのだ。これがハズミとなって、客が客を呼び、評判が評判を呼び、木村社長の目論みは、結果的に大当たりした。

と同時に、彼の思惑を超えたことも起こった。ガイドブックで紹介されたのか、海外からの旅行者たちが次々来店するようになったのだ。成田の最終到着便は22時台、空港には23時までしかいられないから東京まで車をとばして寿司を食べにくる。あるいは朝一番の6時台に到着した人がまっすぐ築地を目指す。そんな外国人が24時間営業・年中無休のすしざんまいを旅程に組み込んだり、夜食朝食をとれる店としてアテにしたりしはじめたわけだ。すしざんまいではじめて寿司を食べた外国人もいよう。そしてまた、すしざんまいによって和食の魅力にとらえられた人も、築地ファンになった人もいよう。木村社長は言う。

「すしざんまいが開店したばかりの12、13年前は、海外の寿司屋の数が2300ほどだった。ところはいまはどうです、7万5000店舗もある。寿司文化は確実に世界に広まりましたよ」

そう語る満面の笑みには、当然ながら誇らしさも漂っている。

35坪のすしざんまいは、40数席で年間10億円を売上げた。客単価3000円として、客回転率は1日23.5回転。驚異的な数字というほかない。そして、この24時間年中無休の寿司屋ができたことで築地はにわかに活気づき、現在は600万人を超える人を惹きつける魅力的な地として復活をとげた。まさに、築地を復活させた立役者は木村清その人。さらには、世界に寿司を広めたのも、すしざんまいと木村清にほかならないといっても過言ではない。

伸びる分野に力を入れることが成長と成功への道

同社の快進撃はいまも続いているが、築地の復活を果たした木村社長が次に手をつけたのは、寿司業界への梃入れだった。

「見まわせば、職人が減りつつある。このままでは寿司業界がダメになるぞ」と、危機感を感じた彼は、すかさず寿司職人養成講座「喜代村塾」を開校した。06年のことだ。職人は3年に1回店を変わっているという寿司業界の定着率の悪さ。しかも、従来のやり方だと、職人が一人前になるまでに10年かかる。ところが、10年たつうち10人いた職人は1人しか残っていないというのが実情だった。しかも、そこで、喜代村塾では、2年間で集中して一人前にまで育てる方式をとった。

「人手不足解消のための即効的な意味合いもありましたが、第一の目標は寿司文化を育てること。海外で働きたいという若者、技術を身につけたいという中高年もたくさんいるわけですし。教える側の築地の職人には、自分たちはこうやって修業してきたということは押しつけるなと言いました。また、自信をもたせて褒めて育てるということも徹底しました。喜代村塾では、2日目でもう寿司を握らせるんです。そして、家に帰ったら自分の握った寿司を家族に食べさせるようにする。家族は喜びますよね。夢をもたせることが大切。人に喜んでもらえることが自分の喜びになれば、使命感も生まれますし」

そうやって育てた多くの寿司職人たちは、すしざんまいをはじめとし、各地の寿司屋で腕をふるっている。人手不足や地方の過疎化解消に一役買っているのはもちろんのこと、喜代村塾は、寿司文化の継承、復興に貢献しているのだ。また同校では、英語教育も行なっているため、海外にはばたき寿司文化の伝播を担っている卒業生も数多いと聞く。

「確かに、一度来たお客さんは満足させずには帰さないというのが私の信条です。けれど、ウチだけが儲けようなんて欲張る気は毛頭ない。寿司業界全体が盛りあがればいいんです。それだけでなく、日本の和食の文化を世界に広めていきたい。ITもそうかもしれないが、″食う”ということは世界共通、健康志向でいいものでありさえすれば、世界に広まっていきますよ。寿司が広まれば、お米、お酒、食器や包丁もと、売れるものも可能性も次々広がっていく。やっぱり伸びる分野に力を入れることが大事ですね」

それにしても、技術を教えて人を育てることからはじめて、業界全体の底上げを図ろうと考え実行する木村社長という人間のスケールは大きい。

新しいものには人が集まってくる人が喜んで来るから繁盛する

木村は、1968年、15歳のとき「F104に乗れる」と聞き、航空自衛隊に入隊した。しかし待ち受けていたのは厳しい訓練であり、しかも通信兵にしかなれないことがわかった。そこで、自衛隊在籍中に17歳で大検に合格。前代未聞のことだった。これによって操縦学生に合格ができたが、運悪く事故で目を悪くしてその道は閉ざされてしまった。そのため心機一転、弁護士を目指す。通信教育で中央大学に入り、司法試験は2年で択一式試験までは受かったものの、カネがつづかずアルバイトに精をださざるを得なかった。そんななか、結局、大洋漁業株式会社(現マルハニチロ株式会社)の子会社で冷凍食品の販売会社に入り、魚の勉強をすることになる。これがその後の運命を決定づけた。

彼は、そこで、既存の企業が自分の価値観とは違う判断でビジネスを行なっていることに驚いたという。たとえば当時、小さい切り身は捨てていた。

「なぜ捨てるのか。もっと使えるのではないか」と木村は考え、そう考えるとすぐ実行に移した。小さな切り身を集めて、寿司ネタとすることを思いついたのだ。スライスし、1枚あたりの原価がわかるようにして売っていった。また、当時考えられなかった「あったかい弁当」の材料にできるのではないかと考え、自分でやってみた。

それは現在のほっかほか弁当の原型にほかならない。自分で「ほか弁」まで作ってしまったのだ。残ったものを集め、土日だけのスーパーのようにして販売もし、これも当たった。「どうしたら売れるか、どうしたら人が喜ぶか、こんなものがあったら喜んでもらえるんじゃないか。そんなことばかり考えていた」。その会社で社員となったが、2年9ヵ月で独立。出る杭は打たれるのたとえどおり、やりすぎたゆえに独立せざるを得なかった。

その後紆余曲折あって、1979年に木村商店を創業。ありとあらゆる業種業態を経験したという。そうするなかで、木村は多くの新業態開発を行なっている。実は、カラオケ、レンタルビデオなどを、まだ誰も手を染めていない時期に手がけているのだ。「いまあるものよりいいものを作る、しかも自社で開発する」がモットー。空いている倉庫があれば夜だけの居酒屋をはじめ、廃車になったバスを改良してカラオケボックスとした。

「新しいものには人が集まってくる。人が喜んで来るから繁盛する」とは木村の弁。

漬物や後の本業につながる本マグロの取り扱いをはじめたのもこのころのことだ。当時、柴漬けはキロ当たり800円したが、さくら大根がいちばん安いと見るやそれを仕入れ、キロ200円でつくった。中国でも水産加工をやった。マグロの大トロは日本人の好むところだが、海外では食べない。そこで、海外に行き、大トロを持ってきた。24時間年中無休の店構想が具体化したのも、こうした背景があってのことだ。そして、長年かかって、いまでは、資源の永続性に配慮しながら、一年中安定供給できるしくみを、喜代村はつくりあげている。

なお、あまり知られてはいないことだが、「カリフォルニア巻き」も「炙りトロ」も、考案したのは木村社長。 「わたしは常に、人が喜ぶもんを考えてるんですね。ドラえもんのポケットですよ。こんなのあったらいいな、と思ったらやってみる。やってみないと、できるかできないかわからないじゃないですか」  次々アイデアを繰り出しながら、自慢せず驕らず、着実に″人が喜ぶもん”を実現していく彼の姿は、頼もしいかぎりだ。

すしざんまいがパチンコに!?

パチンコも人を喜ばせなくては  ところで、すしざんまいがパチンコになると、パチプロやパチンコライター、パチンコヘビーユーザーの間で、いま、もっぱらの噂だ。木村社長にそのことを尋ねれば、「その話はあらためて」とのこと。いよいよ、どんな機械か、どれほど木村社長がアイデアをだしているのか気になるところだ。

そこで、パチンコ業界への一言提案をお願いすると―― 「たとえば、かりにホールが1ヵ月半赤字としましょう。それを超えたらホールが儲かるとしましょう。だったら、客は、その1ヵ月半に3回儲けたら3年間はパチンコやりますよ。そうじゃないですか? とにかく、人に喜んでもらうことを考えなくてはお客さんは来ない。行列のないものに人は集まらない」

木村社長が語れば、ずしんと重い説得力がある。すしざんまいを″ネタ”にした新しい遊技機械に大いに期待したい。

引用元:アミューズメントタイムス

記事掲載日:2014年11月

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